1919年3月1日から約1年間にわたって続けられた、日本帝国主義の植民地支配に反対した韓国(当時は朝鮮)「民族」の独立闘争。1910年の「併合」後、韓国人民は日本帝国主義の苛酷な弾圧と搾取によって、悲惨な運命にさらされた。
そして、韓国人民の抵抗はしだいに活発化しはじめました。面事務所(役所)や憲兵分遺所を襲撃する農民暴動がおこり、1917年以降労働組合の結成がすすみ、1918年からは労働者のストライキも急増した。それにロシアにおける社会主義革命の影響が加わり、第一次世界大戦後の世界的な革命的雰囲気の中で、韓国民衆の独立運動にあらたな高揚をもたらす契機となった。
1919年2月8日東京留学生による独立宣言発表(2・8独立宣言)を受け、3月1日、韓国国内における「民族代表」33人により、京城(現在のソウル)・パゴダ公園で独立宣言書が朗読された。すると韓国民衆の憤怒は、日本の「帝国主義侵略者」に対する全民族的な反日蜂起となって爆発した。ソウルでは数十万の群衆が大規模な反日示威を決行し、「独立万歳」を絶叫しながら街頭に繰り出した。3・1独立運動の烽火は瞬く間に全国津々浦々に燃えひろがり、満州と沿海州・日本・ハワイなど韓国人の居住する海外各地にも波及していった。民衆の激烈な示威闘争に恐れをなした日本の「侵略者」は、警察・憲兵・軍隊を総動員して示威群衆に対して銃弾を浴びせ、多くの愛国者を虐殺した。
しかし、民衆による大衆的な示威運動は、血の弾圧にも屈せず、怒涛のように前進しながらその闘争を高めていった。民衆は斧や棍棒で「日帝」の憲兵分遺所・警察機関・地方行政機関などを襲撃破壊し、一部の地方では武装闘争も展開した。
この闘争は1年間も続き、200万人以上の民衆が参加した。そのため「日帝」の統治機関は一時完全に麻痺状態に陥った。
韓国民衆の挙族的な闘争に直面して、慌てふためいた日本の帝国主義者らは、韓国駐屯の日本軍に加えて、4月中旬からは日本からも軍隊を増派して、非武装の民衆に「暴圧」を加えた。
1919年4月に起こった水原虐殺事件はこの一典型。これは日本人の官憲がソウル近郊の水原付近にある提岩教会に村民を監禁して放火し、必死に逃げ出す村民を無惨にも射殺した事件である。日本人の官憲はその後も3日間にわたって放火と虐殺を続け、数千名を殺りくし、数百の民家を焼きはらった。
ソウルにおいては蜂起参加者を十字架台にはりつけ虐殺した。こうした事件は全国各地で繰り返された。
3・1独立運動で犠牲になった民衆は、1919年3月から5月までの3ヶ月間だけでも死者7,509名、負傷者15,961名、被検挙者46,948名に達した(韓国総督府発表)。負傷者や被検挙者のなかから、その後拷問などで多数の死者が出たことを計算に入れると、虐殺された人の数ははるかに多くなる。
結局、3・1独立運動は韓国民衆の頑強な闘争にも関らず、成功するには至らなかった。しかし、この闘争は、韓国民衆の反日民族「解放」闘争史上、輝かしい地位を占めるもので、多くの教訓を残した。
この騒動を通じて韓国民衆は、「植民地」民族の解放闘争は、必ず民族の主体的力量と組織に依拠してのみ、成功するという教訓を体得した。